長距離航海者の広場
エッセイ
【テーマ:ディンギーについて】
ディンギーの思い出(花)
 4年間のクルージングでディンギーを本格的に使用したのは2年目以降だった。アメリカ、カナダを離れてから、ディンギーは日常の足になった。
 持って行ったのは全長1.8mほどのアキレスのインフレータブルとトーハツの3.5馬力船外機(2サイクル)だった。
 アラスカ・カナダのインサイドパッセージでは、ディンギーを膨らませて下ろすことはあっても、近くの岸へ遊びで上陸するためが多かった。ただ、グレイシャーベイで氷河が海へ落ちている入り江に錨を入れて、氷河のふもとへディンギーを走らせた時は、距離感がつかみにくくて氷河が近づいて来ないのに驚いた。2マイル近く離れていたようだ。
 燃料や水のポリタンや、まとめ買いした食料をディンギーで運ぶようになったのはメキシコに入ってからだった。
 カリフォルニア半島南端のカボ・サン・ルーカスでは、錨泊用アンカレッジは港の外のビーチの前だった。私たちが錨を入れた場所から港の奥のディンギー用桟橋までは、1キロはあった。港に近い所は既に他のヨットでいっぱいだったからだ。港に入るまでは多少波もあった。片道に20分ほどかかり、忘れ物などしたら大変だった。
 ヨットの大きさから考えて、折りたためるインフレータブル以外に選択の余地がなかったし、幸いなことに4年間、ディンギーや船外機に関しては特に苦労しなかったのでおおむね満足していたが、スピードの点では他の船のディンギーをうらやむこともあった。
 先進国を離れると錨泊に頼らざるを得ない場所が多くなる。上陸場所まで1キロあるのも珍しくない。泊地からシュノーケリングのスポットへ行く場合にも1、2キロやもっと移動することはよくある。目的地に早く着け、安定した走りができるパワフルな船外機がうらやましくなることもあった。特にエンジンのパワーが小さいと、何キロも離れた見どころへは不安を感じて二の足を踏んでしまう。
 しかし、簡単に持ち上げられる点では2サイクルの小馬力船外機は都合がいい。私たちはディンギーを使っていない時は、ほぼいつも船外機をディンギーから外して船尾のパルピットに乗せていた。ひとりが船尾に立ち、もうひとりがディンギーに乗って船外機を受け渡しした。一度、風の強い日にディンギーが突風にあおられて転覆し、船外機が水没した時があったが、それはよその船を訪ねていた時のことだった。盗難の心配のいらない場所でも、何が起こるかわからないので、夜間は必ず船外機を船に上げていた。こんな風にこまめに上げ下ろしができたのも、二人いたせいもあるが、船外機の重さが容易に持ち上げられるものだったせいだ。
 長距離航海の時は船外機はキャビンに入れたほうがいい。スターンのパルピットに設置してあった船外機を、しけの大波で失くした船もある。波をかぶって調子が悪くなるおそれもある。
 インフレータブルしか使用したことがないので、インフレータブルについて気づいたことを書いてみる。
 インフレータブルの一番の弱点は尖ったものやごつごつしたものに接触すると穴があき易いことだが、ほかに気温上昇による過剰膨張や紫外線で素材が傷むこともある。
 かんかん照りの日にビーチに放置しておくと、破裂しそうなほどパンパンに膨張してしまう。
 だから私たちは、ビーチにディンギーを置いておく時はなるべく日陰を探し、なおかつ上陸してから空気を抜いてフガフガにしておいた。それでも戻って来るとパンと張っている時があった。
 ただし、これを水に浮かべると、たちまちしぼみ、ふにゃふにゃして乗りにくい状態になる。
 夕方まで出かけていたりしてディンギーへ戻った時に気温が下がっていると、ビーチの上でフガフガになっている。これもかなしい。
 それでも、空気入れをビーチに放置するリスクは犯したくなかった。
 気温の下がっている時に膨らましておくと、水に浮かべていても直射日光で暖まり、パンパンになる時もある。時々チェックしてあまり膨張しているようなら空気を抜くようにした。
 紫外線対策として、周囲の部分だけにでもカバーをかぶせると長持ちするらしい。
 アルミ製のオールの柄が折れてしまったのはうちのディンギーだった。フィジーのスバで、近くのヨットにちょっと行った時だったので船外機は積んでいなかった。折れた切り口を見ると、スカスカだった。街にいる時だったので、ハードウェア店でちょうど同じ太さの円材を見つけて購入し、うまく修理できた。他の場所で壊れなくて幸いだった。
 軽くて頼りない浮き桟橋にディンギーを繋いでおくと、船の曳き波で桟橋がやや持ち上がって、ディンギーが桟橋の下へ入ってしまうことがある。雨で水舟になって浮き桟橋の下に入り込んでしまったディンギーもあった。インフレータブルでこうなるとパンクしやすい。桟橋に押さえつけられて船外機が沈むおそれもある。そういう場所にはなるべく長時間放置せず、めんどうでも波の来にくい場所へ移動するほうがいい。大型船外機を積んでいるディンギーの曳き波も小さくはない。
 ディンギーがたくさん繋いである場所では、なるべく浮き桟橋から離して他のディンギーの間に繋いでいたが、戻って来たらディンギーの位置関係が変わっていて一番外側にあった、という時もあった。
 岸壁にこすりそうな時の対策としては、細長いフェンダーを横にしてディンギーのサイドの外側に来るようにくくりつける方法がある。
 インフレータブルの場合に気をつけなければいけないことは、ヨットの船尾へ舫っておく場合、船尾に尖ったものがないようにすることだ。風がある時はロープいっぱいまで後ろへ流されるが、風がなくなるとディンギーがヨットの真後ろに来てしまい、曳き波などでヨットが上下した時にウインドベーンの先端などでパンクすることがある。特にモニターのウインドベーンは折り返しの部分が尖っているので気をつけたほうがいい。これでパンクしたという人もいた。長期停泊中は折り返しの部分に当てものをするなり、ディンギーをヨットの横に繋ぐなりするとよいだろう。
 ハードの場合でも、ことによったらディンギーかベーンを壊すおそれもあるだろう。クルージングを平穏なものにするには、あらゆるリスクを考慮することが大切だ。
 収納といえば、船尾に滑車でディンギーを吊れるようになっているヨットやモーターボートがある。これだとハードでもソフトでも収納が楽で、沿岸航行には理想的に見える。ただ船尾の形がこれに向いていないとだめだ。
 一日だけの移動だからと何十マイルもディンギーを曳いて行く人もいるが、船足を遅くするし、ディンギーを失うなどのトラブルに遭うことがあるので、やめたほうがいい。短い移動でも船外機をつけたまま曳いて行くのは、やはりリスクがある。
 他の人もディンギーを繋ぐ浮き桟橋では、船外機のプロペラは水に下ろしておくのがマナーだ。自分のプロペラが他のディンギーを傷つけたりしないように。それにプロペラが破損するおそれもある。
 ディンギーで船と陸を行き来する生活でかんにさわるのは、いつも濡れることだ。せっかく有料のシャワーを浴びたり、風呂に浸かっても、帰り道でしぶきを浴びたり、波打ち際で濡れてしまう。ディンギーの底にはいつも少し海水が入っており、濡れて困る物はバケツや防水バッグに入れたり、持ち上げていたりしなければいけない。足がいつも濡れるので水虫にもなりやすくなる。
 船外機の盗難の噂はあちこちで聞く。太平洋ではメキシコの一部の港、タヒチのパペーテ周辺、フィリピンのセブ市など、都会に近いエリアが危ない。危険度の高い場所はたいていヨッティーたちの噂にのぼるので、噂のある場所ではなるべくワイヤーを使う、夜間はディンギーをハリヤードで吊る、船外機を外して船上に上げておく、などの予防を講じたほうがいい。
 ディンギーごと盗まれる場合もあるが、たいていは欲しいのは船外機で、ディンギーはどこかへ放置されることが多い。10馬力程度以上のなるべく馬力の大きいものが狙われやすいようだ。
 フィリピンのセブ市では、着いたその日の夜にインフレータブルをナイフで切り裂いて船外機が持って行かれたケースがあったという。インフレータブルの後部の板をのこぎりで切ったケースもある。
 私たちはディンギーを繋ぐ用のワイヤーを持っていなかったが、盗難が多いと言われるタヒチ島でディンギーを2、3日桟橋に放置しなければならなくなった。幸いヨットから桟橋までは遠くなかったから手漕ぎで上陸し、予備のつもりで持っていた古いリギンのワイヤーの端をテープで巻いて桟橋の脚にからませ、ワイヤーで繋いでいますよ、という風に見せかけたら、大丈夫だった。
 4年間で見たヨットの中で一番小さかった船は、スウェーデン人の70代老人が自作して乗って来た船で、全長5mほどだった。老人は巨体だったが、その船では何もかも、おもちゃのように小さかった。ディンギーは湖で遊ぶような手漕ぎのビニールボートだった。ヨット本体のエンジンでさえ2馬力の船外機だった。あれでスウェーデンから南太平洋まで来たのだった。
 一方、アリューシャン列島のダッチハーバーで会った20メートルほどのニュージーランドのヨットは、ディンギーを3つ積んでいた。そのひとつはモーターで飛び上がるグライダーのように空中に飛び上がることができるフライング・ディンギーだった。実際にそれでテレビ番組用の空中撮影を行ったと言い、写真も見せてくれた。
 まだまだ常識破りのディンギーは存在するのかもしれない。
「花」 トラベラー32 アメリカ製 FRP カッターリグ
航海時期 2000年6月〜2004年7月
航海エリア 太平洋一周(アラスカ、カナダ、アメリカ西海岸、メキシコ、マスケサス、タヒチ、サモア、トンガ、ニュージーランド、フィジー、ニューカレドニア、バヌアツ、ミクロネシア連邦、グアム)