長距離航海者の広場
エッセイ
【テーマ:船酔いについて】
長距離航海における船酔いについての考察(新月)
◇乗物酔体質
 私は子供の頃からどんな乗り物に乗るにも酔い止め薬は欠かせないと言う体質で、いわゆるクラスに一人か二人はいる、遠足のバスでは必ず一番前の先生の横に座らされ、終始エチケット袋を握らされていると言ったクチでした。昔母に聞いた話によると、三半規管と言うのは子供の時分には弱く、大人になってやや丈夫になり、老後また弱くなると言うものだそうで、これが嘘か真かは定かでないのですが、自分自身に限って言えば確かに大人になってからの方が幾らか乗り物に強くなったような気がします。 が、これはあくまでも子供の頃と比較してと言う話で、相変わらず他人に比べれば随分と乗り物に弱い事に変わりは無く、成人後に自分でも車を運転するようになってからでさえ、たまに友人の車に同乗し、その運転が荒かったりすると気持ちが悪くなり、調子の悪いときにはもどしたりもした事が何度かありました。
 そんな自分が船で酔わないわけは無く、クルー時代も初めの1年間などほぼ毎週末ヨットに出かけて行っては、終日船酔いして使い物にもならず仲間に呆れられておりました。それでも懲りずにまた出かけていったのは、密かに外洋航海に出ようという考えがあったからですが、数年続けて幾らか増しになったものの結局最後まで船酔いを克服する事は出来ず、実際に日本を出航するその時まで、私にとって外洋航海に対する最も大きな心配事は船酔いでした。
◇船酔いは三日で治る?
 よく外洋の経験者や商船の船乗りから聞くのが、初めの3日間は船酔いするが、その後は大丈夫だと言う経験談です。何故3日なのか分かりませんが、実際この3日と言う日数は非常によく耳にします。逆に2日だ、いや5日だと言う意見はあまり聞いた事がありません。
 さて、それでは私自身が実際に航海に出てみてどうであったかと言いますと、一律に3日間で船酔いが治まってしまうと言った経験は残念ながらありませんでした。これはもちろん出航後の海のコンディションや風向きなどによって、船の動揺の仕方がその都度異なるからだと考えられます。しかし平均的に見ると、やはり大体3日目から4日目にかけて、だんだん身体が慣れてくるような気はします。それでも完全に正常な、それこそ陸にいる時と同じように気分がすっきりする事など、完全な凪に捕まってうねりも無く、船がぴくりとも揺れないような状態にならない限りありませんでした。普通に風をもらって走っている限り常に若干の船酔い状態にあり、頭は重く気分はすぐれず、些細な作業一つするにせよ自分を奮い立たせる為のエネルギーが必要でした。
◇余計な事はしない
 2度目の出航後2年半が経って当時の婚約者が乗り込むまでの間、私はシングルハンダー(一人乗)だったため、船酔いには最大限気を使っていました。完全に潰れてしまってはそれこそ命に関わるので、航海中は何時でも必要最低限の作業を必要最小限の動作で、なおかつ自分に最も負担の無いペースで行うように常に気をつけていました。ワッチ(見張り)をしている時も水平線から出来る限り目を離さずにいることで、平衡感覚の維持に努めていました。船内にいるときは殆ど横になって身体を休め、揺れの激しい時は頭を壁などにあてて出来る限り余計な動揺を与えないようにしました。
◇暇つぶしに関して
 よく航海中の暇つぶしには読書が良いなどと言う経験談を聞きますが、私にはとんでもない話です。ほんの少しでも酔う可能性のある動作は極力避けていました。本格的に酔って動けなくなってしまう事がとても怖かったのです。結構な揺れの中でかなり船酔いをしていても、横になりながら、大丈夫だ、何かあればまだ全然動けると、何時でも自分自身に確認するような癖がついていました。当然このように必要最低限の動作しかしないと言うのは、実に暇を持て余すと言う事でもあります。実際、本当に暇で、退屈で、時間が経つのが待ち遠しく、私にとっての外洋セーリングとは忍耐以外の何ものでもありませんでした。
◇必要最低限の動作とは
 ところで必要最低限の動作とは、リーフやその解除等と言った船を動かす為の仕事の他に、3度の食事やその用意、片付け、それに大小便やたまの水浴び等、いわゆる生活に伴う作業を含むわけですが、乗り物に弱い人間にとって恐らくこれらは実に辛い作業と言えるでしょう。この食事とトイレの件に関しては別の機会に詳しく書きたいと思いますが、思った以上に難儀します。しかし食べ物の摂取及び排泄は人間に限らず生物が生きるために必要不可欠な行為なので、決して避けては通れません。揺れる船の上でのこれらの営みは、正に一仕事です。
◇船酔対処法
 さて、私が実際に経験して船酔いに効果のあると思えた対処法を幾つか上げておこうと思います。
 先ずとてもありふれていますが、酔い止めの薬を飲む事。眠くなる薬もあるので沿岸では注意が必要です。また詳しい事は分かりませんが、薬なので飲み過ぎには注意が必要かも知れません。私はそれでも身動きできなくなる方が心配だったので、調子の悪いときには一日に2回服用していました。
 そして前述と重複しますが、余計な動作を極力避ける事。退屈でも、じっと我慢です。またこれも先に少し触れましたが、頭が振られないように船の一部などに押し付ける事。これは主にローリングの激しい時に横になっている場合、有効な手段だと思いました。
 ワッチ時に有効なのはこれまた先にも書きましたが、水平線を眺める事。平衡感覚を保つのに役立つように思えます。水平線でなくとも、多くの雲や、陸が見えれば陸地、夜間であれば月や星なども随分と助けになりました。月の出ない曇り空の夜は真の暗闇で、何処までが海で何処からが空なのか全く見分けられない時があります。こう言う時に海が荒れていると辛いです。ワッチは短時間で済ませ、さっさと横になってしまうに限ります。しかしその分こまめに見ないと不安になったりするので、結局辛い事には変わりありません。
 日に当たり過ぎるのは避けたほうが良いでしょう。日光が船酔いの直接原因になるのかどうかは知りませんが、とにかく体調が崩れるので酔い易くなります。サングラスをかける事も忘れてはなりません。明る過ぎる光ばかり見ていると、やはり気分が悪くなる場合があります。
 またコンスタントに水分を補給するのはとても大事だと思います。脱水症状が怖いのはもちろんですが、単純に喉がすっきりして多少は気分がリフレッシュされると言う利点もあります。これと似た意味で、私はよく歯磨きをしました。思ったよりも喉の辺りがすっきりします。飴もよく舐めました。水をひたすら飲み続けるわけにもいかないので、これは喉の渇きを癒す助けになります。
 しかしまぁ何と言っても寝てしまうのが一番楽です。シングルハンドだと中々長時間安心して寝られる事は無いのですが、それでも寝ている間は何も感じないで済みます。私はたまに起きて船の位置と方位を確認し、周囲を一通り見回して何も異常が無ければまた直ぐに横になると言うのが一番一般的なパターンでした。
 これらの他にも、きっと人それぞれ自分にあった独特の方法があるのではないかと思います。酔い止め用のブレスレットを薦めてくれる人にも良く会いました。「新月」にも一組ありましたが、私は使わなかったので効果のほどは不明です。また首筋に貼るパッチのような薬も海外で見たことがあります。何人かに紹介もされましたが、効き目の有無はやはり分かりません。薬に関しては自分で効くと思い込んでいるものを、ひたすら使いつづけました。暗示も有効な手段の一つだと思います。見るからに逆効果と思えるもの意外は、色々試してみても良いでしょう。しかしシングルハンドの場合は慎重であるべきです。もし効かなかった場合、助けてくれる人はいません。
◇酔いの程度をコントロール
 最後になりますが、本当に酔ってしまって何も出来なくなったと言う経験は、「新月」を動かしていた限りではありません。しかし日本を出る以前には何度も経験しました。ああなると、陸に着かない限りは回復しないのではないかと思います。だから完全に酔ってしまった後での対処方法は、残念ながら私には分かりかねます。何度も言うようですが私はその状態になるのを最も恐れ、細心の注意を払ってそれを避ける事に努めました。そして私に関して言えば、酔いを軽度から中度の段階で抑え、その状態をある範囲内でコントロールする事は可能でした。乗り物には極端に弱い私でさえ出来たのですから、殆どの人にはそれが可能であろうと思います。とにかく、完全に酔ってしまってはいけないと言うのが、私の大原則です。
「新月」 Gib's Sea 414 Plus
航海時期 2002〜2005
航海エリア 横浜〜八丈島〜小笠原〜グアム〜ポンペイ〜コスラエ〜バヌアツ〜ニューカレドニア〜ニュージーランド〜トンガ〜フィジー〜ニューカレドニア〜ニュージーランド